PEdALED ヒストリー 第4章 (イタリアでの生活!)

1月 15, 2022

イタリア、ヨーロッパでの自転車文化の奥深さを知る事になる。

ヨーロッパ市場がビジネスの中心に変った事で私の生活も一変しました。

2ヶ月に一度、滞在2〜3週間のペースでイタリアへ行き仕事をするので、年間の3分の1はイタリアでの生活となりました。

出張というより短期の単身赴任のような生活です。

セラロイヤル社の社内にはあらたにPEdALEDセクションが設けられ、小さなチームとしてスタートしました。

イタリア人と日本人のチーム、、、仕事のチームや仲間ですが、実はそれは家族なのです。

仕事のプロジェクトの為に真っ向から自分の考えをぶつけ合い、納得するまで話し合い、自分をさらけ出す姿勢。

それが出来るのは相手を信頼して家族のようにならないと出来ない事だと感じました。

日本のように「上司に合わせて・・」「みんなの意見に・・」でも後で隠れて「俺は違う・・だ」とかは全くありません。

私にとってイタリアでの生活は、デザイン(創造)する事に対してとても大きな影響を受けました。

そんな環境でPEdALEDを展開出来る幸せ、イタリアンファミリーに感謝です。

中でも兄弟のようにほぼ毎日一緒に行動していたルカに、イタリアでの自転車との生活をいろいろ見せてもらいました。

彼のビンテージバイクのコレクション、行きつけのメカニックがいるバイクショップ、プライベートでの自転車仲間、など色んな場所や人々を紹介してくれました。

イタリア人との関係構築は、とにかくオープンマインドになる事で、自分をさらけ出した者を受け入れてくれます。「カッコつけたり、知ったかぶりしたら、、、終了です」。

余談ですが、フレームビルダーの巨匠の「ダリオ ビゴレティー」と友人になれたのも、さらけ出したおかげです。

彼と初めてあったのは、たしか2012年のユーロバイクでした。

イタリアチームの一人とダリオは話し込んでいました。

「一緒に外へ行こう」と誘われ3人で地べたに座り話しをしていました。

通りすがりのすべて人が「ダリオ」に「チャオ!!」と挨拶して行きます。

「誰だ、この人??」と思いましたが、名前を聞いただけで詳しくは聞きませんでした。

自転車界ではとんでもなく有名な人物ですが、なんと私は知らなかったのです。

彼から「俺の事知ってるか?」と尋ねられ、「ごめん。知りません」と答えました。

彼は笑って私を受け入れてくれました。その後は「ヒデ!ヒデ!」と言って友人として接してくれました。

大幅に話しが脱線してしまいました。

イタリアの週末の朝は、外に出ると年齢問わずバイクを楽しむライダーが山ほど居ます。ロードバイク、MTB、ビンテージバイク、、様々です。

ライドの途中のカフェでコーヒーとブリオッシュを楽しんだり、走り終わった仲間でテーブルを囲みビールやスプリツァなどを飲みブルスケッタなどをつまんだり、ゆっくりした時間を過ごしています。

それは草野球を楽しむ日本と近いと思うが、なにか「楽しむ」の感覚が異なっているのです。

言葉では言い表せない「生活の一部感」「生きてる感」という感じでしょうか。

大げさかもしれませんが、「自転車と一緒に人生を楽しんでいる」と私は感じました。

自転車に対する考え方が先進国であるイタリアは、ご存知の通りアパレルファッション界においても、高品質で妥協のない無い物作りは有名です。

PEdALEDは当初からメイドインジャパン(日本製)に拘って製品開発をしてきました。

止める事は出来ませんが、日本の繊維生産技術は海外(他のアジア地区へ)に流出してしまっていました。

私一人では非力ですが、何とか日本の繊維業界の底力を見せるためと日本の縫製工場を継続させたいと考えたからです。

残念な事に、これと同じようなことはイタリアでも起こっています。

イタリアに拠点を移したPEdALEDは、同じくイタリアのアパレル製造の底力と生産技術継続のためにイタリアでの物作りメイドインイタリー(イタリア製)に拘っています。

時間と共に培われた技術は、文字や映像に残したりしても再現出来ないことも多いのです。

まさに師匠の技(Maestro マエストロ)は経験と時間と失敗が詰まっており、例えばマエストロが描いた型紙の線はコンピューターの線より美しく正しい事が多いのです。

一見して同じ製品が出来上がったとしても、それを着用してライドした際の感触・フィーリングは全く違う物です。

イタリア製に拘るPEdALEDを着てライドしてみてください。

イタリアと日本の魂を感じて頂けると思います。

 

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つづく